静岡市(歴史)概要: 静岡市は古くから開けていた地域で日本の弥生時代の代表的な遺構とされる登呂遺跡では住居跡12棟、高床式倉庫跡2棟、水田跡、木製道具(農耕・漁労・狩猟)、祭祀具などが発見され当時から豊かな生活が営んでいたと思われています。大和政権が確立すると駿河国が成立し、国府が静岡市葵区が駿河区辺りに設置されていたと推定されています。国府周辺には駿河国分寺や駿河国総社(現在の神部神社)なども創建され駿河国の中心地として文化的にも高ったと思われます。奈良時代に編纂された「万葉集」では「焼津辺にわが行きしかば駿河なる 阿倍の市道に逢ひし児らはも」と記され、当時から市が立ち多くの人々が行き交っていた事が想像されます。
中世に入ると駿河国守護となった今川氏が台頭し応永6年(1399)には今川館(現在の駿府城)を築き守護所を移しています。戦国時代に入ると今川家の勢力が広大し義元の代には駿河、遠江に加えて三河、尾張の一部を領する大大名となり後の徳川家康も天文8年(1549)から永禄3年(1560)まで人質として駿府城の一角で生活しています。桶狭間の戦いで今川義元が討死すると今川氏は急速に衰退し、永禄11年(1568)には武田信玄の駿河侵攻により駿府城は落城、当主である今川氏真は遠江の掛川城へ後退しています。天正3年(1575)、長篠の戦で武田勝頼が織田、徳川連合軍に敗退すると、家康は駿河に侵攻、天正10年(1582)には駿河城を攻略し天正13年(1585)には家臣である松平家忠に命じて大改修し、居城を浜松城から駿府城に移しています。
天正18年(1590)に家康が関東に移封になると豊臣家家臣中村一氏が入封、慶長5年(1600)の関が原の戦いで後を継いだ中村一忠が東軍に組みした為、米子城(鳥取県米子市)に加増移封となり、代わって韮山城から内藤信成が4万石で入封します。慶長11年(1606)、徳川家康は駿府城を隠居城と定めたことから信成は長浜城(滋賀県長浜市)に移封となり、元和2年(1616)まで家康が在城し大御所として大きな影響力を持ちました。慶長14年(1609)から徳川頼宣(家康10男)が駿府城主となり、元和5年(1619)に和歌山城に移封になると寛永元年(1624)に徳川忠長(徳川秀忠2男)が駿府城に入ります。寛永8年(1631)、忠長が乱心の為改易になると、それ以降は城主は置かれず有力御家人が城代として派遣され、明治維新を迎えています。維新後、静岡藩主として入封した徳川16代の徳川家達が駿府城に入りましたが廃藩置県後は静岡県となっています。
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