袋井市(歴史)概要: 袋井市の歴史は古く大門大塚古墳(円墳:直径26m、高さ4m)や座王権現神社古墳(前方後方墳:全長49m、後方部長25m、高さ約4m、前方部長約25m、高さ約2m)などの古墳が点在し当時から支配階級が存在していたことがわかります。奈良時代に入ると尊永寺や油山寺、西楽寺といった寺院が創建され仏教文化が浸透していきました。中世に入ると久野氏や小笠原氏などの国人領主が支配しますが、遠江守護や駿河守護となった今川氏が台頭すると従うようになります。
桶狭間の戦いで今川義元が討つ取られると、袋井市周辺にいた国人領主達は徳川家に属するようになり、馬伏塚城は当時武田方にあった高天神城の攻略の拠点の1つとして重要視されました。天正12年(1590)、徳川家康が関東に移封になると豊臣家家臣松下之綱が久野城に入り1万6千石を領し、後を継いだ重綱も関が原の戦いで東軍に属し大垣城(岐阜県大垣市)の牽制に尽力した為領土が安堵され久野藩を立藩します。
しかし、慶長8年(1603)、重綱は幕府に無断で久野城の石垣工事を行った為、常陸国小張に移封になります。その後、久野宗能が旧領に復しましたが元和5年(1619)宗成の代に徳川頼宣の家臣として和歌山藩に移り代わって北条氏重が1万石で入封します。しかし、寛永17年(1640)、氏重が下総関宿藩2万石で加増転封となり久野藩は廃藩となります。又、現在の袋井市中心部は東海道の宿場町で、東海道の53の宿場の中で江戸からも京からも27番目の中間点とされ、宿場内にあった観福寺は「へそ寺」の別称があります。宿場内には本陣3軒、旅籠50軒が設置され周辺には遠州三山と称される尊永寺、油山寺、可睡斎などが点在しています。
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