磐田市(歴史)概要: 磐田市は大和政権が確立すると遠江国の中心地として栄えた場所で、国府や国分寺、総社(淡海国玉神社)などが設けられ文化的にも発展していました。遠江国分寺跡では金堂、中門、回廊などの遺構が発見され国指定特別史跡として指定され、御殿・二之宮遺跡では奈良時代の役所施設が設けられ建物跡や木簡、墨書土器などが発見されています。中世に入ると向笠氏や匂坂氏といった国人領主が支配しましたが、南北朝の動乱後に遠江国の守護となった今川氏が台頭するとその支配下に組み込まれていきました。その後、遠江守護となった斯波氏と遠江今川氏(堀越氏)の闘争は長期に渡り、見付端城も度々攻防戦が展開されますが、駿河の今川義元が台頭すると磐田市周辺も義元によって支配されました。
桶狭間の戦いで義元が討死すると徳川家康が遠江に侵攻し、磐田市周辺の拠点として中泉御殿を造営し鷹狩りや宿泊所として利用しました。江戸時代に入ると天領となり中泉御殿の東側の敷地内に中泉代官陣屋が設けられ長く当地方の政治、行政の中心地となりました。又、東海道が開削されると見附宿が整備され、姫街道との分岐点、天竜川の川止宿として多くの旅人や物資の流通に利用されました。見附宿には本陣2軒、脇本陣1軒、旅籠56軒が設置され多くの大名家が参勤交代でも利用しています。
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